昭和41年10月6日 夜の御理解




 信心に、一番必要なのは、みずみずしいまでの生き生きした心で向かうということが一番大事だと思うです。どんなに有り難い神様を頂いておってみても、こちらに生き生きした心がなかったらその神様を有り難く現すことができません。神様が、そういう生き生きしたものを求め給う。
 今日の伊万里の山口さんところのお子さんの、御霊様の式年祭を仕えてくれと突然親子でみえられました。それからこちらに準備をいたしまして、お祭りを奉仕させて頂いたんです。であの、ご神前に、出らせて頂いて座ったら、あの「花」ということを頂きました。これは御霊様に花をお供えすることだろうと思った。それで私また、あの花のお供えきとりゃせんかと、花のお供えきてない。それで、私あの、んー言うなら松の(  )小菊のお供えというかどっかから頂いてきたのが2階にたくさんつけてございましたから、(  )。ほいで改めて、それを洗ってまた(  )それに、まあちょっと入れましてね、そして御霊様にお供えさせて頂いた。神様が求め給うのは、ただその、やはりまあ真心の生き生きした花を求められたんでしょうが、お祭りがすんでからでございました。もう先生があの、うらにつかれてから、花といわれたからもうびっくりしましたちいうてから(  )。

 実は今日は、お花の用意もちゃんとしてあった。ところがその、お供えのあんなに荷物が多いもんだから、忘れてきとるわけですね。ですからもうそのようなこともございましたでしょうが、もうそれはここに、お花のお供えがございましたから、それでまあ間に合わせさせて頂いたんです。ですから、それをまた下げましてから、月次祭にお供えしてあった、こんなふうなのが夜には枯れておりましたから、いよいよ改めて上野さんが入れなおしました。それであの、お礼もうさせて頂きます時に、頂きますのが、その生き生きした(根締め)の花がいろいろいれてございますがそれを頂きますから、(  )の御理解を頂いとります。ね、松はなるほど、まだ生き生きとしております。けれどもやはり、ねじろの菊がたれておりましたから、もう松そのものも値打ちのないように見えておりましたけれども、今日の御霊様のお祭りを機会にまた新たな(根締め)を変えさせて頂いたら松も生き生きとしてきた。ね、いわゆるその花全体が生き生きとしてきた。神様はそういうようなものを求め給うと私は思うです。

 いかに、桂松平先生の信心が椛目に生き生きと働きがあろうとしておりましても、ね、私を初めみなさんの、いわゆる松に対するその根締めの信心がです、水水しいもの、生き生きしたものをかいだら、せっかくの松平先生のご信心も、神様のどんなに生き生きした働きも、それを働きとして表すことはできない。もうどんなにあの人は素晴らしい、良いものをもっとるというてもです、もう生き生きとしたものをかいだらもう値打ちはないです。ね、特に、今日北野の方達が集まって、いうならえー、北部長を中心でありますけれども、大体は(菊栄会の方)が中心。ね、その菊栄会のかたたちの例えば信心ですけれども、果たしてみなさんの信心がです、みずみずしい、まあ今日あそこに入れ替えてあるような、まあその生き生きした、なるほど、菊栄会の方達みんなが言うように、それが実に素晴らしいものをもっていおると、例えばいうておるだけじゃなんにもならん。いやむしろその、松のそれまでも台無しにしてしまう。ね、水水しいまでの信心、生き生きした信心、それはね、ちょっと野原で摘んできた、あー水草でも、まだましです。みずみずしくしておれば。ね、これはしかしまあ、すぐそのしおれたり枯れたりするからなんですけれどもです、ね、それほどの、お互いが頂いておる、例えばよい、その花なら花を頂いておるといたしますならです、よい花だけじゃつまらん、よいものをもっとるだけじゃつまらん。それが、もう生き生きとして水揚げをしておらなければ。ね、生き生きとしてそれが、主体の、その松そのものを生かすだけの、生かす働きになってくるところの生き生きしたものが、みずみずしいものがです、なからなれれば、んーだめだということを、今日は最近その、このお花を頂いてから、感じたんですけれども。お互いの心の中にです、その求めております、ね、ですから求めなければなりません。それは、生き生きとした自分の心がかげておる。ね、わかってはおる。わかっておるだけじゃだめだ。それが、いつも水水しい生き生きした心で神様に向かうということ。または難義にその心で向かうということ。ね、そういうものが私たち自分達の心のなかに、頂けておるかどうかということをいつも確かめさせて頂いて、生き生きした信心ができれる工夫と言うものが、いつもなさらなければならんという風に思うんですね。どんなに有り難い神様を頂いておりましても、どんなにいわば、だいせん、(だいせんばつ)であるところの桂先生のご信心が確かに椛目では、生き生きした働きを表してくださっておる感じがする。とても私共くらいの信心で、(  )ヒレイがあるわけないな。ね、ですからその、松平先生のご信心の中にです、私共の信心が生き生きとして、その根締め変わりに使われるときに桂松平先生の信心も生きてくる。いわゆるうちの宗教の信心もいきてくる。というような気がするのですから、こと、椛目といったような小さいことではない、椛目の信心が生き生きしてくれば、ね、九州中に生き生きした信心が、私はそのそういう信心をもって潤うことができるような大きな願いというものが桂先生のご信心の中にあるんじゃなかろうか、それを頂かせ頂いておる椛目、そういう一つ自覚をもって信心を進めていかなければならんと思うですね、どうぞ。




池尻てるか